遠くで汽笛が鳴っている。
 霧の立ち込める冷ややかな夜に、それは哀切な響きをたたえ、寄る辺のない野良犬たちが、それに合わせて遠吠えを繰り返していた。
 汽笛と、それに犬の遠吠えが、淡く尾を引いて静かに闇の中に吸い込まれていく、真夜中のサウスタウンポート。
 倉庫街近くの薄汚れた路地裏からふらりと出てきた彼の背後には、いずれも体格のいい男たちが、半死半生の態で転がっている。
 果たしてそこで何があったのか。
 闘争と呼ぶには一方的な展開だったであろうことは想像にかたくない。
 しかし、背中を丸めて歩き出した彼にとって、それはもはやどうでもいいことのようだった。
 薄い唇の端から、白い息がわずかにもれている。そこには微塵の乱れもない。
 と――。
 錆びの浮いたコンテナの上に腰かけ、ポータブルオーディプレイヤーの音楽に聞き入っていたウエスタンファッションの若者が、路地から出てきた彼に気づいて気さくに声をかけた。
「よう、待ってたぜ」
「――――」
 彼の鋭い視線が若者を見据える。
 コンクリートでかためられた埠頭に彼の影が淡く伸び、静かな殺気に怯えた野良犬が慌てて逃げ出したが、若者はそのまなざしを平然と受け止め、ヘッドホンをはずしてコンテナの上から飛び降りた。
「ちょいとダンスにつき合ってもらおうか、ミスター・ヤガミ?」
 若者の茶目っ気のあるウインクに、彼は相変わらず無言のまま、赤いパンツのポケットから両手を出した。

      ◇◆◇◆◇

 再開発計画がとどこおりがちなダウンタウンの一角で、赤茶けた骨格だけを何年もさらし続ける高層ビルの屋上に、彼女は立っていた。
 長く伸びた建設資材搬入用のクレーンの先端に、その高さを恐れる景色もなく、超然と立ち尽くすほっそりとした影。
 特徴的な蝶の髪飾りをつけたルイーゼ・マイリンクは、この高みから、サウスタウンのすべてを見下ろしているかのようだった。
「ボン・ソワール、マドモワゼル」
 唐突に飛んできたその声に、ルイーゼは振り返った。
「ゾクゾクするようないい夜だね、おねえさん」
 レザー素材の真っ赤な服を身にまとった青年が――まだ少年といっていい年頃かもしれない――そばかすの目立つ顔に油断のならない笑みを浮かべ、ルイーゼを見つめていた。

      ◇◆◇◆◇

「ぐっ――」
 鉈のような重い一撃に耐えかねたのか、ソワレ・メイラの身体が大きく吹き飛ばされ、背中からフェンスに激突した。
「俺と奴の因縁に割り込むな」
 蒼い炎をともした右手を拳の形に握り締め、八神庵はすぐにつけ足した。
「――死にたくなければな」
「何つーか……別にアンタらの因縁にゃ興味ねぇし、割り込むつもりなんざコレっぽっちもないんだけどさ」
 ソワレは全身のバネを使って身軽に跳ね起きると、首と肩を軽く回して苦笑した。あまりダメージを負っているようには見えない。
「アンタ、そんなこというんだったら、そもそも参戦しなきゃいいんじゃないの、『KOF』なんかにさ? そこんとこ意外に律儀っていうか――なぁ?」
「……くだらん茶番だ」
 庵は忌々しげに吐き捨て、唇をゆがめた。
「これが奴のもとへたどり着く一番の近道でなければ、とうにそうしている」
「なるほど、アンタにとっちゃ茶番か……けど、オレたちにとっちゃ街の行く末がかかった大一番!――なんていったら大袈裟だが、とにかく茶番なんかじゃねえのさ!」
 ソワレは軽やかなステップを踏み、庵を見据えた。独特のリズムから繰り出される変幻自在なカポエラの足技は、ソワレという陽気な若者の天性の才と出会うことで、単なる民族舞踏のレベルを超えた恐るべき武器と化す。
「八神庵――オレたち兄弟の名を上げるには願ってもない大物だ。アンタに恨みはないが、せいぜいハデにやられてくれよ!」
「ふん……貴様が手にするのは虚名ではなく無様な死だけだ。馬鹿め」
 身体のひねりを十二分に生かしたダイナミックなソワレの蹴りを、庵の呪わしい炎が迎え撃った。

      ◇◆◇◆◇

 人気のない駐車場に、こちらも並々ならぬ覇気をみなぎらせて対峙する両者。
 ときおり通過していく急行列車の車内の明かりが、彼らの横顔を断続的にあざやかに照らし出す。
 アルバ・メイラと草薙京――。
「退屈なのはごめんだからな。やる以上は燃えさせてくれるんだろ?」
 ぴんと立てた人差し指にともる真紅の炎が、しっとりとした霧を払うように火の粉を舞い上げて揺らめいた。
「燃えて……そして燃え尽きるか。きみが望むのならそれもいいだろう」
 表情を読ませないサングラスの表面に炎の赤さが反射する。アルバは組んでいた腕をほどき、ゆっくりと身構えた。
 先に動いたのは京だった。軽やかにアスファルトを蹴り、一気に間合いを詰めてアルバの肩口へと鞭のようにしなる蹴りを叩き込む。
「……甘い」
 アルバは紙一重でそれをかわし、逆に京のみぞおちへと至近距離からの掌底、そして続けざまの拳の連打を繰り出した。
「ちっ!」
 京はその打撃をすべて受け止めた上で、炎をまとった拳で反撃に転じた。
「……!」
 拳ではじいてその一撃を逸らしたアルバは、すばやく間合いを広げ、焦げ臭い臭いを放つ革のグローブを一瞥した。
「……聞いていた以上だな」
「そういうアンタも、ギャングにしとくには惜しいモン持ってるじゃねえか」
 アルバのポーカーフェイスを見据え、京はあらためて身構えた。
 アルバはサングラスを押し上げて笑った。
「ギャング風情がなぜ『KOF』にと――そう思うかな?」
「ま、ちょっとはな」
「きみにいっても仕方のないことだが……ギャングだからこそ、だよ」
「何……?」
「おおかたのギャングは絶対的な力にしたがうものだ。街で起こるギャング同士のもめごとを納めるためにも、それ以前にもめごとが起こらないよう睨みを利かせるためにも、誰にでも判る純粋な強さ、力の証明というものが必要なのさ。たとえば――『KOF』優勝という、この街にふさわしい力の証明がね」
「そのために参戦したってわけか? 酔狂なこった」
「笑ってくれてかまわんよ。……だが、勝ちはゆずらない」
 アルバが動いた。悠然とした構えから一転、すべるような動きで京の懐に入り込み、胸倉を掴んでふたたびボディへの重い一撃。
「そいつぁ……俺のセリフだぜ!」
 ガードをかためた上から大きく吹き飛ばされた京は、スクラップ寸前のワゴンに背中から激突しながらも、唇に張りつかせた笑みを消すことなく吠えた。
「燃やし尽くしてやるぜ!」

      ◇◆◇◆◇

 いつしかそばかすの少年は、同じように長く張り出したクレーンの先端に移動していた。
 緑色の陽炎を揺らめかせていったん姿を消し、そしてまた陽炎とともに危険な足場の上へと出現する――そんな芸当を、アッシュ・クリムゾンという少年は、さも当然のようにやってのけ、そしてルイーゼもまた、その光景を当たり前のように受け入れていた。
「あんまり驚いてくれないんだね。ちょっとガッカリだな、ボク」
 綺麗にネイルアートのほどこされた自分の爪を見つめ、アッシュは笑った。
 しかし、ルイーゼがその軽口に応じるつもりがないのを見て取ったのか、アッシュは肩をすくめて下界へと視線を転じた。
「フフ……やってるやってる。みんな一生懸命だネ。何もあんなにムキにならなくたっていいのにさ」
「――――」
「だけどもったいないよね。草薙クンも八神クンも、自分の力が何のためにあるのかまるで判っちゃいないんだから。……ね、そうは思わない?」
「そのふたりのことは、わたしにはよく判らないわ」
 アッシュの言葉に、ルイーゼが初めて応えた。ゆっくりとまばたきするのに合わせて、長いまつげが憂いを帯びて震える。
「でも、彼らのことなら……ええ、そうね。彼ら兄弟は、まだ自分たちの力のことはおろか、自分たち自身のことすらも、まだ真の意味で理解してはいない……」
「おたがいにタイヘンだね、マドモワゼル」
「あなたといっしょにされるのは心外だわ。少なくともわたしは、あなたのように姦計をめぐらせたりはしていない」
「どうしてそうやって決めつけるかな〜?」
「そんな顔をしてるわ、あなた」
 そういって、ルイーゼはその場から姿を消した。淡い光が蝶の麟粉のように、彼女の身体の内側からあふれるようにこぼれ出て、その光が消え去ったあとにはすでに何もない。
「ドコのダレだか知らないけど……タダモノじゃないのはおたがいサマ、ってトコじゃない?」
 目を細めて笑ったアッシュは、その場にしゃがみ込み、彼らの戦いにひとり見入った。
「それにしても、けっこう面白そうだね。……草薙クンも八神クンも、ボクを楽しませてくれそうなくらいには強そうだし」

      ◇◆◇◆◇

「彼らに接触するのは早すぎるって誰かさんに怒られそうだけど、はじめましてのご挨拶がてらに……ボクも乱入、しちゃおっかな?」