【風蕭蕭兮易水寒、壯士一去兮不復還。】

 無情に降りしきる雨が、惨劇に見舞われた里から真紅の炎を消し去り、鼻を突く血の臭いを洗い流しても、それで死んだ人間が戻ってくるわけではない。
 冷たい雨はただ、わずかな生き残りたちから体温を奪っていくだけだった。
 ほとんど焼け野原と化したかつての里の真ん中で、笑龍(シャオロン)は呆然と立ち尽くしたまま雨に打たれている。
 すぐそばでは母親の違う弟や妹たちが泣き続けていたが、彼らにやさしい声をかけることも、そっと手を差し伸べることも、彼女にはできなかった。

 彼らに触れることを、笑龍は許されていなかった。

 

 強さと冷徹さが美徳とされる飛賊にあっては珍しく、その男はとても心やさしく、おだやかで、しかし誰よりも強かった。
 龍(ロン)――。
 笑龍の父親のことである。

 飛賊とは――。
 市井の人は知らず、史書にもその名は明らかにされていないが、彼らは確かに存在する。
 まことしやかに、闇に生きる者の口から口へと伝えられていく風聞でのみ知られる、恐るべき暗殺者たち。
 ――それが飛賊だった。
 その飛賊には、4つの門派がある。
 いわく、“東邪門(とうじゃもん)”。
 いわく、“西毒門(せいどくもん)”。
 いわく、“南帝門(なんていもん)”。
 いわく、“北丐門(ほくかいもん)”。
 飛賊ではこれら4つの門派を統べる頭領を王と呼び習わし、4人の王を四天王と称する。
 代々の四天王たちは、話し合いによってこの恐るべき一族の行く末を定めてきた。何らかの理由で王の座が空くことがあれば、同じ門派の中でもっとも実力のある者があらたな王に選ばれることになる。
“西毒門”の先代の王が病没した時、自分より年嵩の男たちをあっさりと追い越して、龍はあらたな王となった。隠れ里の子供たちの前でおだやかに笑うこの男に、誰ひとりかなう者がいなかったからである。
 そして笑龍は、この男がめとった2番目の妻が産んだ子だった。

 笑龍の母は美しく聡明な女性だったが、嫉妬深い本妻の視線に心を痩せ細らせ、ついに病に倒れて夭折した。
 本妻は龍との間に9人の子供をもうけている。立派に成人した男子もいる。だから余計に、龍の妻は自分ひとりで充分だという独占欲が強かったのだろう。
 当然のごとく、笑龍自身も本妻から疎まれた。彼女が母に似た面差しを持って生まれたことも、本妻の嫉視を買った一因だったに違いない。本妻の子供たちもまた――母にならったわけでもあるまいが――笑龍にはひどくよそよそしかった。
 そんな中にあって、実の父である龍は、ほかの子供たちと分けへだてることなく、笑龍に対して深い愛情をそそいでくれた。それが笑龍には何よりも嬉しかった。
 しかし、同時に笑龍は、父の愛にむくいることができないことがつらくもあった。
 この頃、すでに本妻が産んだ子供たちの幾人かは、一人前に仕事をこなせる飛賊となっていた。ほかの子供たちも、いずれは龍の子にふさわしい飛賊になるだろう。彼らは確かに龍の血を引いていた。
 一方、笑龍はといえば、蒲柳の質だった母に似たのが裏目に出たのか、同年代の子供たちよりも明らかに貧弱な少女だった。幼い頃から修行は続けていたが、特に何か抜きん出た才能があったわけでもない。本妻の子たちとくらべると、その才能の差は歴然としていた。
 その現実と向き合った笑龍が、父の恩にむくいるため、父の役に立つ優秀な飛賊となるために師事したのは、父の同門の麟(リン)だった。
 里で一番の毒手の使い手である麟のもとで、笑龍は、手だけでなく全身を猛毒とするための修行を始めたのである。
 この時、笑龍はまだ十にもなっていなかった。

 

 夜を徹しておこなわれた長い長い話し合いのあと、“南帝門”のあらたな王となった乱(ラン)が里を出ていく時、堕瓏(デュオロン)の背後につきしたがっていた自分に向けた苛烈なまでのまなざしを、たぶん笑龍は一生忘れないだろう。
「……気にするな」
 かすかな陽炎だけを残して乱が立ち去ると、堕瓏が呟いた。
「乱は混乱して少し気が立っているだけだ。……混乱しているのは俺も同じだが」
 堕瓏はそういってくれたが、乱が以前から自分を嫌っていたことを笑龍は知っている。つまるところ、乱は堕瓏のそばに自分以外の若い女がいるのが気に食わないのだろう。
 たとえそれが、堕瓏の腹違いの妹であったとしても。
「堕瓏」
 ほどなくして、ぬかるむ地面に足跡を刻むことなく、麟がやってきた。笑龍は胸の前で拳を組み合わせ、師父への礼を執った。
「行くのか?」
「……行かねばなるまい」
 堕瓏の問いかけに、麟がしわがれた声で答える。
「生き残りの中に、我らが王を――いや、龍を見た者が何人もいる。下手人が龍だということはもはや明白だ」
「だろうな」
 無表情のままうなずき、堕瓏は無惨な骸をさらす飛賊の里を見渡した。
 まともな姿で残っている家屋敷は皆無といっていい。真っ黒に炭化した柱が墓標のように建ち並ぶ中に、炊事の煙を立ち昇らせる急ごしらえの小屋がいくつかあるだけの寒々しい風景を見て、数日前までここにあった里の姿を誰が想像できるだろうか。
 焼け落ちた廃屋の中には、焼け焦げた死体がいくつも放置されている。それは生き残った里の者の数よりはるかに多く、すべて埋葬するだけでも数日はかかるに違いない。激しい業火に焼かれたため、腐臭を放つような生々しい死体がほとんどなかったのは、不幸中のさいわいというべきか。
「……女子供ばかりとはいえ、生き残った者もいた。仕事で里を留守にしていた者たちも、いずれ戻ってくるだろう。かろうじて全滅だけはまぬがれた。まぬがれたが――」
 覆面の下の顔をしかめ、麟はいった。
「……このままでは、我ら飛賊は滅んだも同然だ」
 双眸に暗い輝きを宿してそう語る麟に、確か家族はいなかったはずだが、その暗殺術を商売の道具とし、強固な同族意識と鉄の規律で自分たちを守ってきた飛賊が、身内から出した裏切り者の手によって壊滅寸前に追い込まれた事実は、飛賊としての自分に誇りを持つ麟からすれば、とうてい許しがたいことに違いない。
 そして、それはほかの生き残りたちにとっても同じはずだ。
「我ら飛賊が、たったひとりの裏切り者のために里の者をほとんど皆殺しにされたのだ。下手人を血祭りに上げねば面目が立たん」
「まして長老格の四天王たちまで殺されたとあっては……か」
 堕瓏の呟きを受けて麟が言葉をつないだ。
「……乱が“南帝門”を継いだのと同じように、“北丐門”は賽(サイ)が、“東邪門”は七(チャト)が継いで四天王となった」
「そして“西毒門”はおまえが継いだわけか」
「本来ならおまえの兄のどちらか……実力でいえば、あるいはおまえが継ぐべきところだとは思うが、話し合いでそうと決まった」
「気にするな」
 堕瓏はかすかな笑みを浮かべて首を振った。
「あらたな四天王には経験豊かなおまえのほうがふさわしい。ひるがえって見れば、俺たちはいまや裏切り者の息子だ。それこそ父を――龍を始末しなければ、もはやこの里での居場所さえあるまい」
「……同じことをいって、おまえの兄たちはすでに旅立った」
「おまえももう行くのだな」
「龍を捜し出して処刑するまで、もはやここへは戻るまい。……縁があればまた会おう」
 そこで麟は笑龍に目を向けた。
「さらばだ、笑龍。息災でな」
 笑龍には、その師匠の声に、かすかな哀れみの響きが混じっていたように思えた。
「師父もお元気で」
 ふかぶかと一礼した笑龍が次に顔を上げた時、すでに麟の姿はそこにはなかった。

 

「……父上を超えられると思うか?」
 唐突な兄の問いに、笑龍は咄嗟に声が出なかった。
「俺がだ」
 すぐにつけ足し、堕瓏は鏡越しに笑龍を一瞥した。
「俺にあの父を超えることができると思うか?」
「それをわたしにお尋ねですか?」
「ほかに誰がいる?」
 堕瓏13歳、笑龍11歳の秋。
 もう何年も前から、堕瓏の長い黒髪を朝晩くしけずるのは笑龍の役目となっていた。堕瓏の母は嫌がったが、堕瓏自身がそれを望んだために、なし崩しにそういうことになったのである。
 蝋燭の炎が揺らめく部屋には、まだ大人とは呼べない兄と妹のふたりしかいない。堕瓏の問いがほかの者に向けられていようはずもなかった。
 兄の髪に櫛をすべらせながら、笑龍は小さく笑った。
「……何がおかしい?」
「三太子(サンターツ)もそのようなことをお気になさるのですね」
「おかしいか?」
「いえ」
 笑龍は堕瓏を三太子と呼ぶ。三の若君、というほどの意味である。母は違うが同じ父を持つ兄妹なのだから、兄上と呼んだところで差し障りがあるわけではないのだが、あくまで自分は本妻の子ではないという立場をわきまえ、笑龍はみずから兄のことをそう呼ぶことにしていた。
「……答えを聞いていないぞ」
「わたしには判りかねます」
 その答えが不満だったのか、鏡の中の美少年は、端整な眉をわずかにひそめて笑龍を睨んでいる。

 本妻の9人の兄弟たちのうち、笑龍ともっとも仲がよかったのは堕瓏だった。
 いや、仲がよかったというのはいささか語弊があるかもしれない。
 堕瓏は幼い頃から物静かで、自分の考えや感情をあまり表に出すことがなく、だから笑龍に対しても淡々としていて、取り立ててやさしくふるまってくれていたわけではない。父である龍がほかの子供たちに対するのと同じように笑龍に接していたのと同様、堕瓏もまた、笑龍に対しては、ほかの兄弟たちに対するのと同じように接していただけなのだろう。
 事実、堕瓏は誰に対しても素っ気なかった。
 しかし、ほかの兄弟たちがあからさまに笑龍を無視し、あるいは卑下する中にあっては、堕瓏のそうした態度すら、笑龍には嬉しく思えたのである。

 そんな堕瓏が、珍しく年相応の少年のように、かすかに唇をとがらせて腹を立てている。
 笑龍は慌てて鏡から視線を逸らし、蚊の鳴くような声でいった。
「……わたしには、我が君のお力がどれほどのものなのか見当もつきません」
 兄を三太子と呼ぶように、笑龍は父のことも我が君、王などと呼ぶ。
「それに、三太子がこの先どれほどお強くなるのかも判りません。……ですから、三太子が我が君を超えられるかどうかも判らないのです」
「……うまくごまかされたような気がするな」
「申し訳ございません」
「いい。……たぶんおまえのいうことが正しい」
 笑龍を睨むのをやめた堕瓏は、鏡の脇に置かれた水晶玉をふと手に取った。
「……捨てておいてくれ」
「え?」
「稽古の時にヒビが入った。いつ割れるか判らない」
 いつも堕瓏の髪を飾っていた水晶玉を手渡され、笑龍ははにかんだように微笑んだ。
「あの……」
「何だ?」
「どうせ捨てるのなら、いただいてもいいですか?」
「そういうものが欲しいのなら、父上に頼んで手に入れてもらえばいい。俺が頼んでやる」
「いえ、これでいいんです」
「そんな使い古しでいいのか? いつ砕けるかも判らないのに」
「はい」
 使い古しで充分、と思ってそういったのではない。堕瓏が長年使っていたものだからこそ欲しかったのだ。
 あとにも先にも、笑龍が兄にねだったものはそれだけだった。
 そして、その夜を最後に、笑龍は堕瓏の髪を梳くのをやめた。
 麟のもとでの修行が本格的になってきたせいだった。

 

 あの悪夢の夜から半月ほどがたち、生き残りの里の者たちがようやく落ち着きを見せ始めた頃、笑龍は堕瓏にしたがって森の奥の湖へとやってきた。
 堕瓏が笑龍についてこいといったわけではなく、笑龍が供をするといったわけでもない。ふたりは無言のまま、静かな湖のほとりに立っていた。
「弟たちのこと、思えばまだ礼もいっていなかったな」
「いえ――」
「おまえが里にいなければ、おそらくあれらも命を落としていただろう」
 おだやかな水面を見つめたまま、堕瓏が呟いた。
「奥方さまをお救いすることができませんでした」
「仕方あるまい。あの男を夫に持ったのが不運だった。……もし俺があの日この里にいたとしても、母を救うことはできなかっただろう」
 龍の乱心によって真っ先に命を落としたのは、龍の隣で眠っていた堕瓏の母親だった。別室でやすんでいた幼い子供たちは、逸早く異変を察した笑龍が屋敷から連れ出し、森の奥にかくまったために、父に殺されることだけはまぬがれたのである。
 仕事に出ていた堕瓏たちが戻ってくる日の、前の晩のことだった。
「……おまえは龍を見たのか?」
「はい……いえ」
 笑龍はどちらとも取れる答えを返した。
 里を壊滅に追いやった仇敵を見たかといわれれば、確かに笑龍はそれを見た。
 変事に気づいて泣き叫ぶ子供たちを布団にくるんだままかかえ上げ、窓を蹴破って屋敷を飛び出す寸前、屋敷の侍女たちをことごとく一撃のもとに屠り去り、火を放って高らかに哄笑する黒衣の影を彼女は見た。
 しかし、あれが我が父であったかと聞かれれば、そうだったと即答もできない。
 わずかな星明かりの下、笑龍が見た男は確かに龍であったが、その表情は、彼女がよく知るやさしい父のそれではなかった。
 女たちの断末魔に酔い痴れる残忍な殺戮者の歓喜の表情だった。
 だから、かろうじて息のあった里の者が死ぬ間際に下手人の名をはっきりと告げたと聞いても、笑龍はそれをにわかには信じることができなかった。
「……あの男は、強くなりすぎたのかもしれない」
 笑龍の回想を断ち切るかのように、感情を抑えた堕瓏の声が彼女の耳を打った。
「強くなりすぎて、それでもさらに強さを求めた末に、何かに魅入られたのかもしれない」
「何か……とは?」
 笑龍が聞き返しても、堕瓏は溜息混じりにかぶりを振っただけだった。
「――里を去れ」
 しばらくの沈黙ののち、堕瓏は、振り返りもせず出し抜けにそういった。
「去れ、笑龍」
「それは……ご命令でしょうか……?」
「麟からも乱からも、兄たちからもいまだに連絡がない。……次は俺の番だ」
「我が君を捜しにゆかれますので?」
「あの男を我が君と呼ぶな。奴はもはや我らの王でもなければ父でもないのだ」
 淡々と呟く堕瓏は、緑にかげる陽射しを見上げた。
「いずれおまえにも、龍を追討せよとの命が下るだろう。だが、性根のやさしいおまえでは龍とは闘えまい。たとえそれが飛賊の掟を破ることになったとしてもな。……だから今のうちに里を離れろといっている」
 飛賊に生まれた者が飛賊の掟から逃れて生きることはできない。それを承知の上で堕瓏が笑龍にそういうのは、彼なりの精一杯のやさしさなのだろうか。
「――――」
 笑龍はうつむき、静かに涙を流した。声も立てず、堕瓏のやさしさゆえの残酷さに泣いた。
 飛賊の里を離れて、そして笑龍にどう生きろというのか。
 もはや普通の人間として暮らすこともままならなくなった、飛賊の中にあってさえ異端というしかない身体と成り果てた今の笑龍に、まっとうな人間としての生き方などできはしないのに、堕瓏は里を去れと彼女にいったのだ。
 背後で泣き続ける笑龍に気づいていないのか、堕瓏は黒衣の裾を軽く払った。
「……!」
 はっとして涙をぬぐった笑龍の前で、堕瓏の痩身が風に溶け崩れていく。
「三太子!?――あ、兄上!」
「いうな、笑龍」
 その場に幻影だけを残し、三太子の気配が遠ざかっていく。笑龍はあたりを見回し、自分を置いて旅立とうとする兄の姿を捜した。
 子供の頃から大好きだった――しかし、決して兄と呼んではならない人。あえて三太子、三の若と呼ぶことで、笑龍は彼に対する思いを封じ込めたはずだった。
 その思いが、堰を切って一気にあふれ出そうとしていた。
「やはりおまえは飛賊には向かないな。泣き虫で、やさしすぎる」
 堕瓏が声だけで笑ったような気がした。
「……さらばだ、笑妹(シャオメイ)」
 子供の頃のあだ名で呼びかけた直後、堕瓏の気配は完全に消え去った。

 

 それからさらに半月。
 森の木々が緑のあざやかさをいや増す頃、誰にも見送られることなく、笑龍は旅に出た。
 龍の追討に出た者は、いまだに里に戻ってこない。
 あらたな四天王となった麟も、乱たちも、龍の子供たちも、龍に返り討ちにされたのか、あるいは龍の行方さえ掴めずにいるのか、笑龍にはそれすらも判らなかった。
 今もこの空の下のどこかで、堕瓏は龍を捜している。
 会えば殺し合わねばならない父と子――自分にはやさしかったふたりの凄惨な宿命を思うと、笑龍は胸が痛んだ。
 だから笑龍も旅に出た。

 もしどこかで龍なり堕瓏に出会えたとしても、いまさら笑龍にできることなど何もない。
 龍を父と呼んですがりつくことなどできない。
 堕瓏を兄と呼んでその手を取ることもできない。
 笑龍の身体はもはや猛毒そのものとなってしまった。彼女のもらす甘やかな吐息も、彼女の流す涙のひとしずくさえも、普通の人間にとっては死にいたる毒でしかない。“西毒門”の者はすべからく毒のあつかいに長け、毒に対する耐性を持ってはいるが、笑龍という毒は彼らでさえ命を落としかねない強烈なものだった。
 もし笑龍に抱き締められれば、触れ合った肌から染み入る毒素によって、どんな屈強な飛賊であろうとほんの数秒で倒れるだろう。それは、毒手の使い手である彼女の師、麟ですら例外ではない。龍や堕瓏にしても同じようなものだ。

 愛する父にも兄にも、もう死ぬまで触れることはできない。
 そうと判っていても、笑龍はふたりのために旅立った。
 忌まわしいこの身を挺してでも、父と兄の死闘を止めなければならない。