“誇り高き都”、イタリア、ジェノバ――。
 その郊外の丘の上に建つ瀟洒な屋敷は、この街でも指折りの旧家、ジェルミ家の本宅である。
 もともとジェルミ家は、大航海時代に地中海交易と金融業で財をなした貿易商で、現在もいくつかの会社を経営する資産家だが、それと同時に、勇猛な軍人を数多く輩出してきた家系としても知られている。
 古くは18世紀の対ナポレオン戦争、19世紀のイタリア統一戦争、近代に入ってからは世界各地のテロ組織との戦いにおいても、ジェルミ家の男たちは目覚ましい戦功を挙げてきた。中には戦場で命を落とした者も少なくない。そしていつしかジェルミ家では、当主となるべき者は軍人としての経験を積まねばならぬという物騒な家訓まで持つにいたった。
 ほかならぬ現当主アレッサンドロも、今でこそ髪にちらほらと白いものが混じってはいるが、若い頃は銃を片手に戦場に立ったこともある偉丈夫である。
 全身に無数の傷を負いながらも生きてジェノバに帰還し、亡父の跡を継いでジェルミ家の当主となったアレッサンドロは、当時左前になりつつあった家業をその豪腕でもって盛り立て、今ではジェルミ家中興の立役者とまでいわれている。時には大胆、時には繊細に、市場の流れを冷静に見通すアレッサンドロのすぐれた経営感覚は、わずかな判断ミスが死につながる戦場での経験によって磨かれたといってもいい。
 そんなこわもてな経済人、アレッサンドロ・ジェルミがもっとも溺愛しているのが、ひとり娘のフィオリーナであった。

 街のすべてが見下ろせる日当たりのいいジェルミ家の庭先に、白いテーブルがひとつ、それとお揃いの椅子が3つ。
 陽光を跳ね返して美しく輝く海を眺めて午後のティータイムを楽しんでいたアレッサンドロのもとに、恥じらいもなく大きなあくびをしながら、フィオリーナがやってきた。パジャマの上からガウンをはおったその格好は、いかにもたった今起きてきましたといわんばかりだ。
「んにゅ……おはようございます、おとうさま」
「おはようも何も、もう午後2時だよ、フィオ」
 そういいながらも、アレッサンドロはにこやかに笑っている。もし自分の部下が寝坊して午後2時に出社してこようものなら、鼻の下にたくわえた髭を震わせ、すさまじい剣幕で怒鳴りつけるところだが、さすがのアレッサンドロも、愛娘にはひどく甘い。
 特にきょうは、多忙をきわめる父と娘の休暇が珍しく一致したのである。アレッサンドロの表情が朝からほころんでいるのはそのためだった。
「――ところでフィオや」
 アイスティーで喉を潤すフィオリーナ――フィオに、アレッサンドロは咳払いをひとつしてから尋ねた。
「軍での仕事はどうだね? つらくはないか?」
「楽じゃないけど、もう慣れました。大丈夫です」
 そういって、フィオは眼鏡を押し上げてまだ眠そうな目をこすった。
 フィオリーナ・ジェルミ上級曹長――それが彼女の今の肩書きだ。ジェルミ家に生まれ、いずれはその当主たるべき者のさだめとして、フィオも今は軍人としての経験を積んでいる。
 もっとも、アレッサンドロとしてはそれが気が気ではない。
 ジェルミ家の家訓にしたがい、娘を軍に入隊させたのはアレッサンドロだったが、フィオはまだはたちをわずかにすぎたばかりの女の子である。アレッサンドロにとっては目に入れても痛くないひとり娘であり、その身を危険にさらすような真似はしたくなかった。
 だからアレッサンドロは、軍人時代のコネクションをフルに駆使して、娘がまかり間違っても前線に出ることのないよう、軍人は軍人でも、内地でのデスクワークに就けるようにあれこれ根回しをしたのである。
 だが、ここで悲劇が起こった。
 奔走したアレッサンドロの尽力をあざ笑うかのように、事務上の手違いによって情報局特殊工作部隊〈スパローズ〉に配属されたフィオは、そのまま最前線送りになってしまったのである。
 その時のアレッサンドロの惑乱といったらなかった。最大級の不手際をやらかした軍の人事部に年代もののサーベルを振りかざして乗り込もうとしたり、娘が送られた戦場に個人所有のジェット機で馳せ参じようとしたり――もし周囲の人々が止めていなければ、今頃はジェルミ家そのものがなくなっていたかもしれない。
 ともあれ、そんな父親の心配をよそに、フィオは戦場の花と散ることもなく、激しい戦火の下をくぐり抜けてきた。数えきれないほどの修羅場を経験してきたわりには少しも軍人らしくなく、相変わらずおっとりとして子供っぽいところが抜けきらないのは、アレッサンドロにとってはささやかななぐさめといえよう。
 アレッサンドロは髭についたエスプレッソの泡をぬぐい、愛娘の顔色をうかがった。
「その……何か任務に失敗して降格されたとか、配置転換になったとか、そういうことは……?」
「いやだわ、おとうさま。これでもわたしはうまくやってるんだから」
 フィオはころころと笑って父の言葉を否定したが、アレッサンドロとしてはむしろ肯定してほしかった。たとえ降格の憂き目に遭ったとしても、それで最前線から後方へ配置転換してもらえるなら、いくらでも任務に失敗してくれといいたい。
 しかし、そんな親心にも気づかず、フィオは自分がジェルミ家の人間としての責務を立派にまっとうしていることを主張した。
「――その功績が認められて、今度わたし、特別任務に就くことになったんだから」
「何!? と、特別任務だと?」
「まあ、外部の傭兵部隊との共同作戦ていうか、そんなカンジかしら? その傭兵部隊の極秘の潜入捜査に、わたしもオブザーバーとして協力することが決まったの」
「極秘の潜入捜査? 外部の傭兵部隊というと……?」
「えーと……隊長がハイデルンとかいう人でー」
 父に問われるままに任務について次々と説明するフィオに、どうやら守秘義務という概念はないらしいが、いちいちそれを指摘している精神的な余裕はアレッサンドロにはない。フィオの言葉を聞くなり、アレッサンドロは口に含んでいたエスプレッソを噴き出してしまった。
「ぶほはっ……は、はっ、ハイデルン!? 隻眼の傭兵ハイデルンのことかっ!?」
「あれ、おとうさまのお知り合い?」
「知り合いなものかっ! というか、おまえはハイデルンという男のことを知らないのか!?」
「うん、ほとんど」
 きょとんとした表情で首を振るフィオを見たアレッサンドロは、椅子を蹴倒すほどのいきおいで立ち上がると、今にも泣きそうな顔で、雲ひとつなく晴れ渡ったイタリアの空に向かって両手を広げた。
「――マンマミーア! フィオがあの男の指揮下ではたらくことになるとは!」
 つねに地球でもっとも危険な場所にいるといわれる、超一流の傭兵ハイデルン――その指揮下でおこなわれる特別任務がどのようなものなのか、アレッサンドロには知る由もなかったが、決して安全なものでないことだけは確かだ。
 フィオがその男の噂をまったく知らなかったのは、果たして幸運だったのか、それとも不幸だったのか。
 少なくともアレッサンドロにとっては、フィオの前線行きを聞かされた時以上の不幸には違いなかった。