奈落の虫
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〈3〉

 グランド・モスク——。
 ハイデルン率いる傭兵部隊では、彼らが包囲作戦を展開しているこの無数の寺院群を、そう呼んでいる。
 南北に約1800メートル、東西に約2300メートルという広大な敷地の中に、それぞれが回廊で結ばれた大小7つのモスクとゲストハウス、庭園や池などが存在するこの空間は、イスラム文化とヒンドゥー文化がない交ぜになった、一種独特な“異世界”であった。
 ハイデルンが統括する本隊とラルフ率いる別働隊が、南北からこのグランド・モスクを包囲しつつある中、ひそかに地下施設に潜入し、さらわれた科学者たちの消息を把握するのが、クラーク、レオナ、フィオの3人に課せられた任務である。

「……妙だな」
 手先の器用なフィオにロックを解除させ、ハッチの隙間から奥を覗き込んだクラークの眉間に、いぶかしげなしわが刻まれた。
「ど、どうしたんです、中尉?」
「自分の目で見てみな」
「えっ?」
 サングラスを押し上げ、クラークはその“空間”へと足を踏み入れた。
 蒸すような生ぬるい空気に、ここでは機械油の臭いが混じっている。奥行きも幅も目算で計れないほどに広く、天井も高い。
 なるほど、確かにここは、格納庫と呼ぶにふさわしい圧倒的な容積を誇っている。無数のコンテナや建築資材が整然と積まれ、さして明るいとはいえない天井の照明ともあいまって、あちこちにかぐろい影を作り出していた。
「……静かですね」
「静かすぎるわ」
「え?」
 敵の姿がないことに安堵していたのか、額の汗をぬぐって嘆息していたフィオは、不吉なものを感じさせるレオナの言葉に慌てて特殊スコープを取り出した。
「ちょ、ちょっと待ってください——」
 物陰からそっと顔を出し、スコープ越しにあちこちを見回す。
 格納庫内の気温は屋外よりかなり高い33度。金属製の床も壁も天井も、そしてコンテナ類も、すべてのものがその高い気温に馴染んで、サーモグラフの画像はオレンジ色に染まって見える。
 しかし、その気温以上の熱を持って動いているものは、さしあたってクラークたち3人だけしか感知できなかった。
 要するに、ここには誰もいない。
「今にして思えば、あっさりしすぎてたかも、な……」
 ライフルを肩に担いで嘆息するクラークを、フィオは驚きの表情で見上げた。
「そ、それってどういうことです?」
「たとえばおまえさんとこの本部は、こんなに警備がザルなのかい?」
「い、いえ、そんなことは——」
「じゃあそういうことさ。警備がザルじゃないはずなのに、ここまで何の障害もなくやってこられた。考えられる理由はそう多くないだろう?」
 クラークはレオナに目配せをすると、手近なところにあったコンテナに耳を押し当て、軽く叩いてみた。気難しげな表情で何度か同じことを繰り返し、レオナを振り返る。
「このへんのはみんな空だな。……そっちはどうだ、レオナ?」
「……こっちもよ」
 壁のようにそそり立つコンテナの山を振り仰ぎ、レオナは呟いた。
「ここには何もないわ。……人も、物資も」
「やれやれ。——どうやら一歩遅かったらしい」
「それじゃまさか、我々の作戦を事前に察知して……?」
「慌てて引っ越しをしたって可能性もなくはないな」
「だ、だって、現にここのジェネレーターや換気システムは今も稼働しているじゃないですか! これほどの規模の施設をあっさり放棄して姿を消すなんて……」
「無傷で捨てていくにはちょいと惜しいおもちゃ箱かもしれんがね」
 クラークは大袈裟に肩をすくめて歩き出した。100キロを超える体重を感じさせないひそやかな足取りは、さすがに歴戦の古強者と思わせるものだった。
「——いずれにしろ、俺たちは〈アデス〉について何も知らなさすぎる。ひょっとしたら連中は、こういう拠点を世界中のあちこちに持っていて、ひとつやふたつ放棄したところで痛くもかゆくもないほどの組織なのかもしれん」
 コンテナの山の間を抜け、広々と開けたところへとやってきたクラークは、殺風景な壁の一角に取りつけられていたパネルを指差した。
「シニョリーナ、あいつを頼む。この格納庫にしたところで、全体の規模からすればほんの一部にすぎないはずだ。できればほかのところの様子を知りたい。……セキュリティに引っかからんようにな」
「りょ、了解です!」
 几帳面に敬礼して、フィオはパネルに取りついた。どうやら情報検索用の端末らしく、小型のモニターといくつかのキーが並んでいる。
 フィオはいつまでたっても使い慣れない銃をかたわらに置き、パネルに手を伸ばした。

 フィオが施設内の構造を調べている間、ライフルを構えてあたりを警戒しながら、レオナがクラークにいうでもなく呟いた。
「罠よ。……たぶん」
 感情の抑揚にとぼしいレオナの言葉は、しばしば死神のささやきのように不気味に響くことがある。内容が内容だけに、今のひと言はなおさらに不気味だった。
 しかしクラークは、それを聞いても平然と笑っている。
「さらっていった科学者先生や〈アデス〉の手がかりをエサに、何かと邪魔っ気な俺たちをここに集めて、この基地ごと吹っ飛ばす——か? まあ、ありえんハナシじゃあないな。あえて俺たちを誘い入れたと考えれば、ここまでスムーズに来られたことにも説明がつく」
 クラークはパネルに向かって熱心に何やらやっているフィオを一瞥した。
「……ま、あのシニョリーナには酷かもしれんが、教官が俺たちだけを先行させたのは、その可能性を考慮に入れてるからだろうさ」
 たとえそうした罠が用意されていたとしても、今すぐ緊急コールを発信すれば、地上で展開中の部隊はグランド・モスクの包囲作戦を中断する手はずになっていた。最悪の場合でも、犠牲者はここにいる3人だけですむ。
 レオナはポニーテールを揺らしてかぶりを振った。
「わたしたちは、死なないわ」
「ほう?」
「教官は、わたしたちがどんな状況でも生還してくることを信じている。……わたしたちを捨石だと考える人じゃない」
「そりゃそうだろうさ」
 手塩にかけて育てた部下たちを惨殺された過去を持つハイデルンは、クラークたちに危険な橋を渡らせることはあっても、決して作戦のために死ねとはいわない。レオナにいわれるまでもなく、クラークはそのことをよく知っている。
 ハイデルンが部下たちを危険な任務に送り出すのは、部下たちが作戦を遂行するのに十二分な実力を持っていると信頼している時だけだし、むしろつね日頃から、生きて帰ってくることを至上命令としている。
 おそらくハイデルンがフィオをクラークたちに同行させたのは、広大な施設内の調査には彼女が持つコンピューター関係の知識と技術が必須であり、そしてもうひとつには、フィオという“お荷物”を背負っていれば、クラークとレオナが任務遂行を優先するあまりに、みずからの命を軽んじてしまうことを未然に防げると考えたからだろう。
「……これも一種の思いやりってヤツかね」
 クラークの苦笑混じりの呟きに、レオナは何もいわなかった。はたで見ていると何を考えているのかよく判らない娘だが、おそらくレオナにしたところで、フィオを自分たちにつき合わせて死なせてしまうのは不本意に違いない。
「中尉」
 その時、フィオが低く押し殺した声でクラークを呼んだ。
「どうした? 何か判ったのか?」
「ほかのフロア情報を確認してみましたけど、や、やっぱり誰もいないみたいです」
「完全に無人なのか?」
「そ、それは……ここの端末から確認できるのは、施設全体の8割ほどのようなので——」
「例の科学者先生たちの居場所は判らないか?」
「調べたかぎりでは確認できませんでした。……と、とにかく、可能なかぎりメインコンピューターからデータを吸い出してみます」
 キャップのつばを後ろに回し、フィオはポーチの中のデバイスから引きずり出したケーブルを端末へと接続した。
「大急ぎで頼む。……悪い予感がしてきた」
「は、はい」
 この手の作業は——ラルフほどではないにしろ——クラークもあまり得意ではない。以前は同じチームにこういうことを得意としていた少女がいたにはいたが、今はどこで何をしているのか、姿を消したきり行方が知れない。
 らしくもない溜息をもらし、クラークはサングラスをはずしてレンズを磨こうとした。
 その時、軽い地響きがクラークの手もとをすべらせた。
「——っと!」
 取り落としそうになったサングラスを咄嗟にかけ直し、クラークは天井を見上げた。
「上……か?」
 地震ではない。おそらく地上で何かあったのだろう。
「……まだ作戦開始の時間じゃないわ」
 無愛想に呟いたレオナは、すでにライフルのセーフティをはずしていた。
 たとえ地上部隊がグランド・モスクの包囲を完了したとしても、クラークたちからの連絡がないかぎり——予定時刻を前倒しにして攻撃が開始されることはない。とすれば、想定外の何かが地上で起こったと見るべきだろう。
「——あ!」
 フィオの驚きの声が、クラークの視線を引き戻した。
「どうした?」
「メインデータバンクへのアクセスがいきなり切断されました!」
「何?」
 フィオの指がめまぐるしくキーを叩き、眼鏡越しの瞳がモニター上の文字列をすさまじい速さで追いかける。
「空調システムも停止しました。施設内の気温が急上昇中です——!」
「どういうことだ?」
「わ、判りません! でも、あちこちのエネルギーラインが切断されて——そのくせ、ジェネレーターの稼働率は上昇し続けてるんです! ジェネレータールーム内の気温はもう70度を超えました!」
「なるほど……ジェネレーターを暴走させて、何もかも吹き飛ばすつもりか」
 単純で、しかし効果的な手段だ。証拠隠滅と関係者の口封じが同時にできる。ハイデルンたちの作戦を事前に察知し、人員や資材の大半をすでにどこかへ移動させていたのだとすれば、この無理心中のようなやり口にも納得がいく。
 おそらく地上では、ひと足先にあのグランド・モスクが崩壊を始めたのだろう。今も続いている震動がそれをしめしていた。
「一応聞くが……ここからジェネレーターの暴走を止めることはできるか?」
「むっ、ムリです!」
 フィオの声はほとんど悲鳴に近かった。
「さっきもいいましたけど、この端末からじゃ——」
「判った。不可能を可能にしろとはいわんよ。だから泣くな」
 キャップ越しにフィオの頭をぽんと叩き、クラークは背後を振り返った。
「……中尉」
 ライフルを構え、レオナが格納庫の広い床を見据えていた。
 モスクの崩壊によるものとは違う震動が、足元のほうから伝わってきた。
「あ……!」
 格納庫の床の一部がスライドし、大きな口を開けていく。
 パネルの前から立ち上がったフィオは、涙を拭いてゴーグル越しにその穴を凝視した。
「な、何かが——何かが、た、たくさん……」
「できればもう少し明確に、具体的に報告できないか、シニョリーナ?」
 フィオを落ち着かせるように、ことさら淡々と、クラークはいった。
「な、何かがあの穴の中にいます——」
「何がいる?」
「判りません! でも、さっきまでぜんぜん反応がなかったのに、いきなり、熱源が20も30も……ど、どんどん増えていきます! 何かが次々に目を醒ましていくみたいな——」
「————」
 その時、クラークの耳が、何百、何千、何万と群れをなす羽虫の羽音を捉えた。

 何かが、あの穴から這い出てこようとしていた。

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