アルバとソワレ
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〈2〉

 自分の爪先を凝視したまま歩き続けてきたアルバは、耳に馴染みのある異国のリズムに気づいて顔を上げた。
 デルタパークにほど近い、ネオンのあざやかさが網膜を刺激する繁華街である。
 すでにここは、〈サンズ・オブ・フェイト〉の縄張りではない。が、かといってほかの組織の縄張りというわけでもない。ギャングやマフィアといった人種と切っても切れないこのサウスタウンにも、ときたま、こうしたエアポケットのような場所が存在する。
 この〈パオパオカフェ〉は、夜ごと多くの格闘家たちが集まる“闘う者たちの社交場”であり、どこの組織にも属していない一種の中立地帯だった。この店に手を出すことは、そこにやってくる格闘家たちを敵に回すことにひとしい。
 その場に立ち止まり、派手なネオンサインをしばらく見上げていたアルバは、サングラスを押し上げて店に入った。
 ドアがスライドした瞬間、ベリンバウとバンデイロ、それにカシシーの音色が洪水のようにあふれ出てくる。
 そして、次にアルバを迎えたのは、広々としたフロアで談笑していた客たちの、少し驚いたようなまなざしだった。
「…………」
 この街で自分がどれだけの有名人なのか、アルバにはよく判らない。だが、彼らの視線が、なぜこの男がここにいるのかという疑問を呈しているのだけは理解できた。少なくともここに居合わせた酔客たちの多くは、アルバ・メイラという男の顔と名前をよく知っているらしい。
 店内は開放感のある吹き抜けになっていて、テラス状の2階席からはフロア全体が見下ろせるようになっていた。アルバは自分にそそがれる視線を超然と無視して2階に上がると、空いていたテーブルに陣取った。
「——こんばんは、ヘル・アルバ・メイラ。今夜はおひとりで?」
 ほどなく、メニューを持ってドレッドヘアの男がやってきた。ぱりっとした白いシャツに黒いスラックス、そして蝶ネクタイというバーテン風のスタイルだが、その下に、よく鍛え上げられたしなやかな肉体が隠されているであろうことがひと目で判る。
 物腰こそおだやかだったが、かなりやりそうだ——メニューを受け取り、アルバはそんなことを思った。
「……私はそんなに有名だろうか?」
「よそではどうか判りません」
 丸い銀色のトレイを小脇にかかえた男は、フロアを見渡して小さく笑った。
「——ただ、この店に集まるお客さまの多くは、そういうことには目端が利きますから」
「そうか……どうやら私は招かれざる客だったらしい」
「そういうわけではありませんよ。ただ、彼らにはあなたが珍しいのです。——この街の“キング”が、まさかこの店を訪れるとは思っていなかったのでしょう」
 私も驚いていますといい置いて、オーダーを取った男は下がっていった。
 アルバ・メイラという来訪者を呑み込んでも、この店の空気が取り立てて変わることはなかった。どこかアフリカあたりの宗教音楽を思わせる、それでいて心が浮き立つような旋律に合わせて、ステージ上でカポエラのステップを披露しているのは、おそらくこの店のスタッフたちだろう。
 だが、おそらくソワレなら、彼らの誰よりも軽快なステップを刻んで人々の喝采を浴びるに違いない。
 そんなことを考えて、アルバは苦笑した。ついもれてしまった弱々しい笑みは、何とも自嘲的だった。
「——やあ、ヘル・メイラ」
 屈託のないその声に視線を転じると、見覚えのある男がトレイを片手に立っていた。
「メストレ・リカルド——」
「メストレ〔マスター〕じゃないよ。きょうは客として来てるんだ。私の店はまだ改装中さ」
「なら、なぜボーイの真似事を?」
「いやなに、おまえさんが来てると聞いたもんでね」
 リチャード・マイヤ——〈パオパオカフェ〉1号店のマスターであり、おそらくこのサウスタウンでもっとも名の通った格闘家のひとりだろう。カポエラを広めるためにブラジルからやってきた経験豊富なカポエリスタは、同時に、カフェに集まってくる若き格闘家たちにとってのよき相談相手でもあった。
 アルバのテーブルにシュラスコを盛った皿とカイピリーニャのグラスを置き、リチャードはアルバの向かいに腰を降ろした。
「私が頼んだのはディーベルスだったはずだが」
「この店に来たら、ぜひカイピリーニャを飲んでもらいたいね。私はいつも、極上のカサーシャから作ったカイピリーニャを食前酒にしているんだ。……それとも、あまりきつすぎる酒は苦手かね?」
「苦手ではないが……あまり飲むほうではないのも事実でね」
 リチャードに勧められるまま、アルバはライム色のカクテルに口をつけた。
 カイピリーニャとは、サトウキビを原料とするカサーシャという蒸留酒に、砂糖と、ライムの果汁を刻んだ皮といっしょに加えたカクテルのことを指す。甘口だが、アルコールとしてはかなりきつい部類に入る。普段ドイツビールくらいしか口にしないアルバにとっては、初めて経験する酒だった。
 むしろソワレが好きそうな味だと、アルバはまた苦笑した。
「リニューアルがすんだら、私がやっている1号店のほうにも来てくれないか? 少し遠出になるかもしれないが、できればお仲間たちといっしょに」
「それはいいが、あなたに迷惑がかからないか?」
「おまえさんなら大丈夫さ」
 スパイスの効いたシュラスコを口に運び、リチャードは笑った。
「——ギャングだろうとギャングでなかろうと、一歩私の店に足を踏み入れればほかの客と差別はしない。おまえさんも、そういう線引きのできる男だろう?」
「分別はあるつもりだが、私には敵も少なくないんでね」
「敵か……“キング”の称号を担いでいくのも楽じゃないようだな」
 他人ごとのように呟いたリチャードは、ふと表情をあらためてわずかに身を乗り出した。
「……余計なお世話かもしれんが、ここ数日で、その敵とやらの動きが派手になってきていることには気づいているかね?」
「…………」
 アルバはその問いには答えず、フロアに視線を落とした。
「実はきのう、セントラルマーケットであの子に会ってね。おまえさんも知ってるだろう、チャイナタウンの、鈴をぶら下げたあの元気のいい娘さんだよ」
「……ああ」
「基本的に、チャイナタウンはギャング同士の抗争に対しては口を出さない。彼らはつねに中立だ。……が、おまえさんは個人的に彼らと縁があるそうじゃないか」
 以前——まだフェイトが生きていた頃、彼の口利きで、アルバはチャイナタウンの老人たちから中国拳法を学んでいたことがある。期間としてはさほど長いものではなかったが、その恩義を忘れたことはない。
「表立っておまえさんたちに肩入れはできなくとも、やはりおまえさんのことが心配なんだろうさ。……おまえさんを倒してあらたな“キング”になろうって連中が動き始めてるのを、あの子が知らせてくれたよ」
「……ソワレがいなくなったからだろう」
 溜息混じりに呟き、アルバはサングラスを押さえた。
「今の“キング”は弟がいなければ何もできない。そいつらはそのことに気づいたんだろう」
「……何だって?」
 リチャードはいぶかしげに聞き返した。
「弟さんがどうしたって?」
「ソワレがいなくなった」
 アルバはカイピリーニャをあおって熱い吐息をもらした。
 南国の強いアルコールが、いつもよりほんの少しだけ、アルバを饒舌にしていた。

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