サンズ・オブ・フェイト
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〈3〉

 目が醒めたのは、あまり上等とはいえないスプリングが死にかけたベッドの上だった。
「…………」
 ベッドに横たわったままアルバが見つめていたのは、薄汚れた天井だった。
 さしあたって、ここは天国でも地獄でもないらしい。
 まだ自由に身体を動かせない代わりに、目だけを動かしてあたりを見回すと、グラマラスなプレイメイトのポスターやダーツボードで飾られた壁や、ベッド同様に粗末な調度のたぐいが視界に入った。
 だが、アルバが捜していたのはそんなものではない。
 ふと膝のあたりに重みを感じて視線を移動させると、ソワレがアルバの足にのしかかるようにして眠りこけている。ベッドの脇に置いた椅子に腰かけ、アルバの看病をしているうちに眠ってしまったのかもしれない。
 あちこちに包帯を巻いた痣だらけの姿は見ていて痛々しかったが、それでも、ソワレの無事をひとまず確認したアルバは、ほっと安堵の吐息をもらした。
 混濁していた意識が次第にはっきりとしてくるにつれて、自分が置かれている状況を確認する余裕も生まれた。
 自分たちがこうして手当されているところを見ると、どうやらあの袋小路で倒れていたところを誰かに助けられたらしい。
 ただ、もし自分たちを発見したのが警察なら、いくらこの街が荒廃しているとはいえ、それなりに綺麗な病院に収容されるはずだろう。あるいはアルバたちが不法移民だということが判明すれば、そういう少年たちが収容される施設に——そこがどんな場所か寡聞にしてアルバは知らないが——送られているはずだ。
 しかし、どう見てもここは安っぽいアパートの一室だった。
 アルバがこの部屋の持ち主の正体について考えをめぐらせていると、部屋の外の廊下を近づいてくる複数の足音が聞こえてきた。
 それが耳についたのか、眠っていたソワレがかすかに身じろぎして目を醒ました。
「……んぁ?」
 寝ぼけまなこをこすっていたソワレは、アルバが目醒めていることに気づいて絆創膏だらけの顔を笑みに崩したが、近づいてくる足音に気づいたのだろう、すぐに表情をかたくしてドアのほうを振り返った。
「——お、どっちももう起きてるぜ」
 ドアを開けて真っ先に入ってきた少年が、ベッドのところのふたりを見て目を丸くした。
「細っこいわりにタフだなー、こいつら」
「いいからどけよ、ノエル」
 アルバたちと同年代の少年を押しのけるようにして、背の高い大人の男たちが入ってきた。
「ああ、確かにタフだな。普通あれだけボコボコにされていたら、熱を出して数日は寝込むところだけど」
 そういって笑ったのは、いかにも人のよさそうな——いっそお人好しといってよさそうな、おだやかな目をした男だった。30をいくつかすぎているように見えるが、不思議と愛嬌のある顔立ちをしている。ただ、ラフな服装の上からでも、その大きな身体にしっかりとした筋肉がついているのがよく判った。
 男がかかえている紙袋からはおいしそうな匂いがただよってくる。それに気づいたソワレが思わず喉を鳴らしたのがアルバにも判った。
「目が醒めたんならさっさと追い出せよ」
 冷淡にそういい放ったのは、“お人好し”に続いて入ってきた痩身の男だった。軽くウェーブした長い黒髪をかき上げる仕種や彫りの深い横顔に、いかにも女たちに騒がれそうな男の色気がにじんでいる。身につけているシャツやアクセサリーは小洒落ていて、どうにもこの部屋のそっけなさとは不釣合いだった。
「“組織”の連中とトラブルを起こしたガキなんざ連れ込んで、また面倒なことになったらどうするつもりなんだ?」
 疫病神でも見るような目で、“色男”がアルバたちを一瞥する。
「——人助けはおまえの趣味かもしれねえが、それにしたって、少しは立場ってものを考えろよ。チンピラだった頃のおまえじゃねえんだぜ?」
「判ってるよ、チャンス。今回だけさ」
 大袈裟に溜息をつく“色男”——チャンスにおどけたようにウインクして、“お人好し”はテーブルの上に紙袋を置いた。
「——おまえたち、腹減ってるだろ? よかったら食べないか?」
 ホットドッグを片手に“お人好し”が口にしたその言葉が、自分たちに向けられたものだと理解できるまでに、少し時間がかかった。見ず知らずの自分たちに、ただで何か食わせてくれるような“お人好し”に出会ったのは、これが初めてだったからだ。
 しかし、アルバはすぐには答えなかった。ソワレが物欲しげに手を伸ばそうとしたのを察して、咄嗟にその手を押さえることさえした。
 この街の流儀はもうアルバにも判っている。
 下心なしに人によくしてやろうという人間は、この街では絶滅危惧種に近いのだ。
 おそらくこの男たちも、何か考えがあって自分たちを助けたのに違いない。
 ——そう、アルバは思った。
 それを見抜いたように、壁にもたれてタバコを吸っていたチャンスが、唇をゆがめて憎々しげにいった。
「いわれのねえほどこしはいらねえってツラしてるぜ。……大きなお世話だとよ」
「そうか? そんなことはないだろ?」
 小首をかしげながら、“お人好し”は次々に紙袋の中身をテーブルの上に並べていった。
 ホットドッグにハンバーガー、赤く熟したリンゴ、ミネラルウォーター、板チョコ——。
 栄養価はともかく、今すぐにでもかぶりつきたいものを目の前に並べられて、ソワレがまたごくりと喉を鳴らしたが、アルバの制止を振り切ってまで手を伸ばそうとはしなかった。
“お人好し”はテーブルの上の食料をアルバたちにしめし、あっけらかんといった。
「おまえらロクにものを食ってないんだろ? ほら、遠慮せずに食えよ」
「なあ、ひょっとしてこいつら、言葉が通じないんじゃないか?」
 最初に部屋に入ってきたノエルとかいう少年が、ドアに寄りかかってそういった。
「言葉が通じないって……まさかおまえら、不法移民か?」
「————」
“お人好し”の頓狂な声に、アルバは唇を噛み締めた。わざわざ言葉に出してそれを肯定するつもりはないが、もしこのまま警察に連れていかれて取り調べを受ければ、アルバたちが密入国してきたということはすぐにばれてしまうだろう。
「どうやら図星らしいな」
 リンゴをひとつ手に取り、派手な柄のシャツの袖口で拭いてかじりついたチャンスは、アルバをじっと見据えて笑った。
「——それと、少なくともそっちのケガがヒドいほうは英語が判るみたいだぜ? もうひとりはさっきっからオレたちの言葉には無反応だが、そっちはちゃんと理解してる」
 この男は鋭い。“お人好し”のほうはそうでもないが、このチャンスという男は、遊び人風の見た目に反してかなり深い洞察力を持っている。
 この男たちが何者なのか、アルバはかたく口を閉ざして考えをめぐらせた。
「とりあえず、毒は入ってねえよ」
 歯型のついたリンゴがアルバの目の前に飛んできた。
「“組織”の下っ端どもにリンチにされたってのは、どうせアレだろ? この街のことをロクに知りもしねえくせに、“組織”の人間がやってる店で盗みでもはたらいたんだろ? そういう世間知らずのガキどもがサンクションズ・レーンでボコられてるって、そういうハナシを小耳にはさんだんでな」
 思わずそれを受け止めたアルバに、チャンスが“お人好し”を指差して肩をすくめた。
「ウチのお人好しはな、そういう話を聞くと黙ってられねえんだよ。別に助けたことを感謝しろとはいわねえから、とにかく食え」
「おいチャンス、もう少しいい方を考えろよ。ケガ人相手にキツいぞ、おまえ」
「おまえがやわらかすぎるだけだろ。おまえが考えてる以上にこいつらはしたたかだよ。……特にそっちはな」
「そうか? 見ればまだ子供じゃないか。ノエルとそう変わらないだろ?」
「やめてくれよ、フェイト! 俺ぁもうガキじゃないってば!」
「エマニエル・ストリートの女を見て顔を真っ赤にするようじゃ、まだまだガキだな」
「チャンス! あんたもそういうこというなよっ!」
「…………」
 目の前で繰り広げられる甘ったるい馴れ合いをじっと見つめたまま、アルバは手したリンゴをソワレに渡した。
「い、いいのか、にいちゃん?」
「ああ。先に食え」
 男たちには聞こえないように、小声のドイツ語でそっとささやく。
 その間も、アルバの視線は、このサウスタウンのスラムに似合わない、癪に障るほど人がいい男を追いかけていた。
 フェイト——。
 本名かどうかはともかく、“お人好し”は仲間たちからそう呼ばれているようだった。

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