サンズ・オブ・フェイト
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〈5〉

 このアパートに担ぎ込まれた日から、アルバとソワレは、この部屋で暮らしている。
 本来ここはフェイトの部屋だったが、本人は空き部屋に移動して、自分の部屋をアルバたちの好きなように使わせているのである。
「にいちゃん、まだギプスは取れないのか?」
 ソファに横になったソワレが、ベッドに腰かけているアルバに尋ねた。
「にいちゃんって呼ぶな」
 ギプス越しに右腕を撫でながら、アルバはいった。
「この前もいったろう? そんな呼び方をしていると、いつまでもガキあつかいされてなめられる。俺も、おまえも」
「悪ぃ、つい昔からの癖で、さ……」
 双子の兄の軽い叱責に、ソワレはバツが悪そうに頭をかいた。
「……潮時だな」
 アルバはテーブルの上に置かれた腕時計を見やった。
「え? 何かいったかい、に……じゃねえ、兄貴?」
「潮時だ。もういいだろう」
 頬に1枚だけ貼ってあった絆創膏を剥がして立ち上がったアルバは、空き地に面した窓を開けると、ギプスの腕を大きく振り上げた。
「ちょっ……何する気だよ、にいちゃん!?」
「せめて兄貴と呼んでくれ」
 淡々といい放ち、アルバは窓枠に右腕を叩きつけた。
 石膏が細かい破片となって飛び散り、白い煙がわずかに舞い上がった。
「だっ……大丈夫なのかよ、そんなことして!?」
「問題ない。どのみちあしたかあさってには、あのヤブ医者のところに行って取るはずだったんだからな」
 右腕を固定していたギプスに大きなヒビをいれ、そこに指先を突っ込んで強引に引き剥がしたアルバは、ゆっくりと右手の指先に力を込めた。
 腕も指も、以前よりいくぶん細くなったように見えるが、動きそのものには支障はない。痛みももうほとんど感じなかった。
 それを確認したアルバは、壁にかけてあった上着を掴んでソワレに投げ渡した。
「行くぞ、ソワレ」
「え? い、行くって……どこに?」
「どこでもいいさ」
 ジャンパーの内ポケットに手を突っ込み、そこにしまってあった紙幣の感触を確かめる。これまでフェイトが、何かにつけてくれたこづかいだ。
「どこでもいい。とにかく俺は、ここじゃない別の場所に行きたいだけだ」
「えっ……? ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
 声をひそめ、ソワレはソファから立ち上がった。
「どうしてだよ、にいちゃん? もしかして——」
「にいちゃんと呼ぶな」
「それは今はいいだろ! それよりにいちゃん、まだフェイトたちのことを疑ってんのかよ? みんながオレたちのことをどうこうするとかさあ! そりゃあ、ここのみんなはギャングかもしれないけど——」
「……ずいぶんとフェイトに懐いたみたいだな、ソワレ?」
「はぁ?」
「いや——」
 自分はフェイトに嫉妬しているのか——アルバは自問した。
 アルバは静かにかぶりを振った。
 答えはすぐに、そして明確に出た。
 その思いがゼロだとはいわないが、今こうしてここを離れようと思い立った理由は、フェイトへの嫉妬ではない。
「確かに、俺にももう判っている」
 フェイトたちが、とことん“お人好し”なギャングだということが。
「確かにフェイトたちはそんな人間じゃあない。それは俺も承知している」
「だったらどうしてだよ!? どうして急にここを出てくなんて——」
「おまえは嫌なのか、ここを離れるのが?」
「嫌っていうか……」
 ソワレは眉をひそめてうつむいた。
「……これまでオレたち、いろんな街を流れ歩いてきたよな?」
「ああ」
「そのたびにヤバい目に遭ったりして、どこに行っても落ち着いて暮らせなくて、とうとうこんなアメリカくんだりまで来ちまったけど——ここはさ、ここは、なんかこう……違うんだよ、これまでの街とはさ」
「どう違う?」
「オレにもよく判らないっていうか、うまく説明できないんだけど……要するに、居心地がいいんだ」
「このゴミ溜めのような街がか?」
「ああ。確かにここはサイテーの街かもしれないけど、それだけじゃない何かがある。よそ者のはずのオレたちでも、ここでなら生きていけるんじゃないかって——そう、思わせてくれるんだよ」
 それは、この街だからそう思えるわけじゃない。
 あの“お人好し”がいるからだ。
「そうか」
 ある程度想像できていたソワレの言葉に、アルバは大きくうなずいた。
「——だが、それでも俺はここを出ていく」
「にいちゃん……」
 呆然とするソワレの表情が、アルバの胸を鋭く刺した。
 しかし、それでもアルバは自分の決断を曲げるつもりはなかった。
 ここにいたら、俺は俺でいられなくなる——そんな漠然とした不安が、今のアルバを突き動かしていた。
「……判ったよ、にいちゃん」
 大仰に肩をすくめ、ソワレはぎこちなく笑った。
「オレはにいちゃんの行くところについてく。施設を逃げ出す時にそう決めたからな」
「いいんだな?」
「いったろ? オレは自分自身よりもにいちゃんのことを信じてるって。にいちゃんがそこまでいうんだったら、オレもそうするだけの話だよ」
 ソワレが袖を通した上着には、洗っても落ちない血の染みがいくつも残っている。
 だが、この街にたどり着いた時とくらべて、その顔には覇気がみなぎっていた。
 この街と、そしてフェイトたちがそれをあたえてくれたのだと思うと、アルバは複雑な気分だった。

 なけなしの現金を懐にかかえ、アパートの窓からこっそりと抜け出したアルバとソワレは、その足でセントラルストリートに向かった。
 この街から外の世界へと通じる路線の始発駅がそのあたりにあるというのも理由のひとつだったし、何より、長旅に備えてあれこれ買い込むにも不自由しない。買い物ならアパートの近くのドラッグストアでもできないことはなかったが、あの界隈にはすでに顔を見知った人間が多くなりすぎた。
 ふと空を見上げると、スモッグの向こうに弱々しくまたたく星々が輝いていた。
 両親の死後、幼年期をすごしていたあの施設から脱走する時、ソワレとふたりで見上げた星空は、ここにある星空よりももっと美しかったような気がしたが、今ではそれを思い出すことも難しい。
「に……兄貴」
 物思いにふけるアルバの袖を、ソワレがそっと引いた。
 色とりどりのネオンがあざやかな影を落とす通りの、ほんの数メートル先の路肩に停まっていた趣味の悪いオープンカーから、はたちほどの若者が4、5人ばかり、軽薄そうに笑いながら降りてくる。
「あいつら——」
 見覚えのある——忘れようにも忘れられない顔だった。
 アルバとソワレがこの街にやってきたその日、空腹に耐えかねてドラッグストアで“ひとはたらき”やらかしたが、それがばれて逃げきれずに捕まった。あの時、アルバたちを警察に突き出す代わりに人気のない路地裏に連れ込み、さんざんサンドバッグ代わりにしてくれたのがあいつらだった。
 あとでチャンスから詳しく聞いたが、あのドラッグストアは“組織”の人間が経営している店だという。あのチンピラたちも“組織”の構成員で、この界隈で起こるトラブルをスマートに——というより、すこぶる単純な方法で——解決するのが仕事だった。
 アルバには、自分たちが体のいい見せしめにされたのだということが判っている。
 たとえ子供だろうと、“組織”の息がかかった店でナメたマネをするとこうなる——それをスラムの人間たちに思い知らせるために、アルバたちは寄ってたかって意識を失うまで殴られ続けたのだ。
「————」
 あの時の恐怖と屈辱と苦痛がよみがえってくる。
 そして、それ以上の怒りが、抑えがたいいきおいで胸の奥からあふれ出てきた。
「なんだか気分が悪いぜ……あいつらをこのままにしてこの街から出てくんじゃぁさ」
 アルバの気持ちを代弁するかのように、ソワレが拳を握って呟いた。
 あの時は空腹と疲労のせいで後れを取ったが、たとえ相手が年上の人間でも、ケンカならそうそう負けないという自信がふたりにはあった。数をたのむしか能のない連中に半殺しにされて、そのお返しもできずにこの街を去るのでは、まるで自分たちが白旗をかかげて退却していくようで、確かに気分はよくない。
 アルバは無言でソワレの顔を見やった。
 鼻の頭を親指でこすり、ソワレはにやりと笑ってうなずいた。
 それを合図に、アルバとソワレは同時に駆け出した。
 足音に気づいたチンピラたちがこちらを向いた時には、これもはかったように同時に、ふたりの足はアスファルトを蹴っていた。
「ぐ、ぶ!」
「ご——」
 スピードと体重の乗った飛び蹴りを顔の真ん中でまともに受け、一瞬でふたりの男が崩れ落ちた。
「おまえら——!?」
 いきなり派手な不意討ちを仕掛けてきたのが、先日半殺しにしてやったはずのよそ者だと気づいたのか、残ったチンピラたちの顔に驚きの表情が浮かんだ。
「行きがけの駄賃だ、取っとけよ!」
 ソワレは拳を固めて殴りかかろうとした男の襟首を掴んで引き寄せ、その鼻っ面に頭突きをお見舞いした。
「ぶがっ」
「あらよっ!」
 思わずのけぞった男の首すじへと、ひねりの効いた回し蹴りがヒットする。特に格闘技を習ったことなどないが、生来のバランス感覚のおかげか、ソワレは誰にも何も教わることなく、綺麗なフォームの蹴りを放つことができた。
「このガキっ——!」
「そういうほどあんたもオトナじゃあないな」
 スキンヘッドに刺青を入れたチンピラがナイフを抜いても、アルバはそれを冷静に見ることができた。まっすぐ胸もとへと突き込まれてきた切っ先をかわし、すばやくポジションを入れ替える。
「のやろッ」
 振り向きざまに繰り出された横殴りの一撃を紙一重のスウェーで避けたアルバは、男の足首のあたりを強く払った。
「うお——っぐ!?」
 バランスを崩した男の顔面に手を押し当て、そのまま思い切りオープンカーのボンネットへと叩きつけてやる。ぴかぴかに磨かれたクルマが一瞬にして傷物になり、そして、同時に男の意識も飛んだ。
 あとは——。
 残った男を捜して振り返った時、店の中から、今の騒音を聞きつけてさらに数人の男たちが現れた。
「このガキども……!」
「畜生!」
「ソワレ!」
「判ってる!」
 気絶したチンピラの襟首を掴んで男たちのほうに押しやり、アルバは走り出した。
 年上の男たちを4人、あっという間に叩きのめせたのは、背後からの奇襲が功を奏したからだ。さらに多くの敵を相手に同じ手は通用しないし、もし周りを囲まれたらこの前の二の舞になる。
 このまま駅までたどり着ければ、ギャングたちもそれ以上は追ってこないだろう。
 そう思ってソワレとふたりで逃げ出したが、敵は想像以上に多かった。
「待ちやがれ!」
 交差点のところで巨大なトレーラーに行く手をふさがれ、ついにアルバの肩に追っ手の手がかかった。
「ちっ」
 ろくに確かめもせず、右足を後ろに向かって振り上げる。
「ぎゃっ!」
 急所を蹴り上げられて悶絶した追っ手の頬に、振り返りざまの右フックを叩き込んだ。
「……!」
 その瞬間、アルバの右腕に痛みが走った。
「にいちゃん!?」
 アルバの動きが一瞬止まったのを見て、ソワレが目を見開いた。
「てめえら、オレが相手だ!」
 ソワレに蹴り飛ばされたチンピラが角の電話ボックスに激突し、ガラスの砕け散る音が繁華街の夜に鳴り響く。その場に居合わせた中年女がそれを見て金切り声をあげ、あたりはあっという間に騒乱の巷と化した。
「ぐっ!」
「ソワレ——」
 あっという間に周りを取り囲まれた。
 ソワレが殴られ、アルバも殴られた。
 自分たちが殴られた数の何倍もの数のパンチやキックをお見舞いしてやったが、それでも、チンピラたちはどこからともなくやってくる。この界隈は、“組織”の息がかかった店が多く、そうした店にはつねに“組織”の人間がたむろしているのである。
「くそ……っ!」
 骨のきしみに耐え、アルバはまたひとり男を殴り飛ばした。
 こうしたトラブルは日常茶飯事なのか、さっきまで信号待ちをしていた人々は、いつの間にかその場から立ち去り、あるいは遠く離れたところから、アルバたちの孤独な闘いを傍観している。
 薄情な大人たちだ。
 ——とは思わない。それが当然の反応だからだ。そういう世界で生きているのならまだしも、誰も好き好んで他人のケンカに介入しようとは思うまい。
 むしろアルバにとっては、差し伸べた手を途中で引っ込めるような、そんな中途半端な真似をされるほうがよほど嫌だった。へたに期待させるくらいなら、最初から無関心でいてくれたほうがよほどいい。
「俺は……俺たちはっ」
 ソワレと背中合わせの位置に立ち、アルバは我知らずのうちに叫んでいた。
 俺たちは誰も信じない。誰も頼らない。おたがいだけを信じ、頼っていればいい。
 それ以外の人間は、しょせんは他人なのだ。
 その思いを噛み締め、アルバは目の前の男の顔面を殴った。
 そして、またしたたかに殴られた。

 いつしかアルバとソワレの周りには、これまでふたりが殴り倒してきた連中の数よりも多い男たちが集まってきていた。

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